カンボジアのまさと(masato_ogiwara)です。
僕は現在カンボジアのソフトテニスのナショナルチームのヘッドコーチをしています。
そのきっかけとなったのはFIELD OF ZERO〜農村の子どもたちにスポーツ教育を〜の記事でも紹介しているFIELD OF ZEROの活動でオリンピック委員会の事務局長にお会いしたときに、カンボジアソフトテニス連盟を紹介されたのがきっかけでした。
今日は僕がなぜカンボジアでソフトテニスの普及をしているのかについて紹介していきます。
ソフトテニスを世界へ普及させたい
(カンボジアの学校にソフトテニスの授業をした時)
ソフトテニスはもともと日本発祥のスポーツで130年以上の歴史があり、ソフトテニス愛好家も日本に700万人ほどいると言われている競技ですが、世界のソフトテニス人口は、世界のソフトテニス人口|まさと調べでも紹介していますが、まだまだ少なく、アジアを中心として盛り上がってきている競技です。
しかし、そのアジアでさえもまだまだ普及は進んでおらず、カンボジアにも当然ソフトテニスは普及していませんでした。
そこで僕は、まず自分が住んでいるこのカンボジアでソフトテニスの普及への取り組みを開始し、自分が成功例として事例をつくることができれば、その時には日本でソフトテニスを世界に普及させたいと思い、うずうずしている人の道標になるのではないかと思いました。
最初は何の当てもないスタートでしたが、微力だけど無力じゃないことを信じて取り組んでいるうちに、道はどんどん拓けていきました。
そうしていく中で、様々な出会いやご縁をいただき、多くの人が関わりサポートしてくださったおかげで、半年後には世界選手権へ出場することができました。
ソフトテニスこそが僕のアイデンティティだった
僕は最初から今までずっとボランティアでこの活動に携わっています。
僕がナショナルチームのヘッドコーチ依頼をもらった時には、カンボジアソフトテニス連盟はできたばかりで実績がないので、国からの援助金もほとんどなく、僕へのお金の話も当然ありませんでした。
しかし、僕はカンボジアで仕事をしているので、コーチとして活動している時間は働いていないことになるので、当然お金を稼ぐことはできません。
そのため、ボランティアとして引き受けることになると、その分仕事ができる時間が減るので収入が減ってしまうため、どのように関わっていくか悩みました。
しかし、当時は「カンボジアソフトテニス連盟が発足したタイミング」と「独立したタイミング」が近かったこともあり、時間が縛られないので、やり方によってはうまく関わっていけると思いました。
そのため、生きていくために必要なお金は、カンボジアでビジネスをしている以上自分で稼げばいい。
この活動は、僕を成長させてくれたソフトテニスへの恩返しだと思って無償でしようと腹を括りました。
僕はソフトテニスを通して、本気でぶつかり合ったからこそ理解し合えた、一生付き合っていきたいと思える仲間に出会い、その仲間とともに数え切れないほどの素晴らしい経験をさせていただきました。
僕にとって、ソフトテニスという競技は「荻原雅斗を作った全て」であり、僕が自分の人生を語る上でどうしても外すことのできないキーワードであるということを感じた時に、むしろお金を払ってでもやる価値のある活動だと思い、無償でやることに対しての不満や自分が生活できなかったらどうしようという不安は一切ありませんでした。
海外ではパイオニアになれるチャンスは山ほどある
僕はこの体験から、海外に出れば、今まで自分が一生懸命取り組んできたことや学んできたことをアウトプットすることで、パイオニアになれることがあるということをこの経験から学びました。
きっとこれまで僕と同様にずっとスポーツしかやってこなかったけれど、それを生かしてチャレンジしたいと思う人は多いと思います。
しかし、それを日本で活かせる場というのは海外に比べ少なく、海外に出れば僕のようにカンボジアでソフトテニスを普及させ、この分野でのパイオニアになるチャンスがあります。
カンボジアでソフトテニスというキーワードは誰一人として注目していなかったのが、ここ最近で少しずつ拡がりを見せはじめ、これまでカンボジアのテレビには少なくても20回近く取り上げてもらうことができました。
日本ではソフトテニスは世界選手権で金メダルを獲得しても、大きく取り上げられることはありませんが、カンボジアは国際大会でメダル獲得した時には、空港にテレビ局が駆けつけ凱旋帰国でした。
カンボジアはそう遠くない過去に暗い歴史を抱えている国だからこそ、今こうして平和の象徴でもあるスポーツができるようになり、国際的にカンボジア人が活躍することによって国民に与える影響は大きいということを実感しました。
インドでクリケットが国技になるほどの人気種目になったように、僕は将来カンボジアでソフトテニスが国技レベルの人気競技なることを夢見て、これからもこの活動を続けていきたいと思います。